アレキサンダーを失ったマリーは、悲しみに沈んでいました。
でも、彼女には19歳になった一人息子のオーランドがいました。そして、仕事仲間も・・・。彼らは「今、彼女に必要なのはなぐさめではなくて、創作意欲をかき立てる何か・・・」だと思っていました。事業の面から考えても、新しい経営スタッフが必要でした。
「彼に相談してみよう」マリーが共同経営者として思い浮かべたのは、ひとりの日本人でした。夫の葬儀にもはるばる日本からかけつけてくれたその男性は、日本のマリーショップに大きな成功をもたらしていました。
彼の名は中山寿一。マリークヮントコスメチックスジャパンの代表取締役社長、その人でした。
1991年・・・彼はマリーとともに、イギリス本国にあるMARY QUANT LTD.のジョイント・チェアマンに就任。経営者として手腕を発揮することになったのです。
日本はマリーにとって、真のパートナーになりました。
以前から、マリーは日本びいきでした。日本人を家族のように思っていました。日本人と仕事をするのが好きな理由を聞かれると、いつもマリーはこう答えていました。「地に足がついていないとアイデアだけが宙に浮いてしまう。まだ誰も試したことのない新しいモノを創ろうとしたとき、彼らは私の思いを完全に理解し、私のプロトタイプ(原型)を寸分たがわず製品化してくれる。彼らの完璧主義は徹底している」と。
マリーはアレキサンダーのことを忘れることはできませんでしたが、彼と一緒にはじめた事業は、こうして、ふたたび、新しい一歩を踏み出したのです。
ロンドンのアイビス通り(あの「バザー」と同じチェルシー地区)に、マリーのブティックが甦ったのは、それから3年のちのことでした。コスメをベースにカジュアルなファッションや雑貨を揃えたショップは、「バザーの再興」とロンドンっ子たちの話題になりました。
マリーは、そのショップの3階に新しいアトリエを構えました。