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世界を巡回したMARY%20QUANT展が開催中!世界を巡回したMARY%20QUANT展が開催中!

ブランドの創始者マリー・クヮントは、
1950年代後半のロンドンでミニスカートを発表し、
一躍世界にセンセーションを巻き起こした
ファッション・クリエイター。
彼女が巻き起こしたファッション・レボリューションを紹介する
展覧会(「マリー・クワント展」情報はこちら)が、
2023年1月29日(日)まで、
東京・渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムにて開催。
これを記念し、1年にわたり少しずつご紹介してきた
マリー・クヮントの様々なエピソードも、今回が最終回です。

刺激的でワクワクする、
マリー・クヮントのヒストリーを楽しんで!

About Mary Quant

マリー・クヮントは、イギリス・ロンドン出身のファッション・クリエイター。
1955年に夫のアレキサンダーや友人と、チェルシーのキングスロードで始めたブティックBAZAAR(バザー)が出発点。
古いルールや既成概念に縛られないデザインで、Swinging LONDON(スインギングロンドン)と呼ばれる60年代のカルチャームーブメントを牽引した一人と言われています。マリーが発表したミニスカートは世界的なブームとなり、女性の社会進出のシンボルともとらえられるようになりました。
"自由に 自分らしく" というマリー・クヮントのスピリッツは、ブランドの商品やサービスを通じ、時代を超えて受け継がれています。

世界を巡回したMARY%20QUANT展がついに日本上陸!

MARY QUANT展日本上陸記念MARY QUANT EPISODE

ブランドのアイコン・デイジーを随時更新していきます!
どうぞお楽しみに!

  • 【2月】PARTS & LOOK【2月】PARTS & LOOK
  • 【3月】BLACK DAISY【3月】BLACK DAISY
  • 【4月】Non Rule【4月】Non Rule
  • 【5月】Fashion in the home【5月】Fashion in the home
  • 【6月】CURIOSITY【6月】CURIOSITY
  • 【7月】About Colours:Part 1【7月】About Colours:Part 1
  • 【8月】About Colours:Part 2【8月】About Colours:Part 2
  • 【9月】MAKEUP & SKINCAREMAKEUP & SKINCARE
  • 【10月】Mini Skirt【10月】Mini Skirt
  • 【11月】BAZAAR【11月】BAZAAR
  • 【12月】COMING SOON【12月】COMING SOON
  • 【1月】COMING SOON【1月】COMING SOON

参考文献:
MARY QUANT マリー・クヮント著、野沢佳織訳、晶文社2013年ミニの女王 マリー・クワント自伝 訳者 藤原美智子、鎌倉書房1969年

PARTS & LOOK [パーツとルック]PARTS & LOOK [パーツとルック]

All I do is provide the parts. I am happy as long as everyone enjoys combining the different parts as they like.[~私はパーツを提供するだけ。あとは皆さんが自由に組み合わせを楽しんでくれればそれで満足~]All I do is provide the parts. I am happy as long as everyone enjoys combining the different parts as they like.[~私はパーツを提供するだけ。あとは皆さんが自由に組み合わせを楽しんでくれればそれで満足~]

マリー・クヮントは、自分がデザインするアイテムをPARTS(パーツ)と呼びます。
コスメもファッションも、その全てのひとつひとつがパーツであり、それらを自由に組み合わせることによって完成するのが、マリーが提案するLOOK(ルック)です。

マリーは、1955年にロンドンのキングス・ロードにブティック「バザー」をオープンしました。
「例えばあの服に、私のタイツを組み合わせたら、もっと、ファッションが楽しくなるはず・・・。」
彼女の事業のはじまりでもあった「バザー」は、パーツの組み合わせによる楽しい雑貨感覚のショップでした。

これからはパーツやアクセサリーの時代。マリーはそう予測していました。パーツが蓄積されれば、ひとつのスタイルになる。マリーの先を読む目は確かでした。それは時代が証明してくれました。

パーツの組み合わせによるマリーのルック。「バザー」の外観。パーツの組み合わせによるマリーのルック。「バザー」の外観。

マリー・クヮントの創造の根幹にあるルックとは、単に身に着ける衣服のコーディネートを指すだけでなく、その人が醸し出す雰囲気や動作、人への接し方から、化粧の仕方、髪の結い方まで、つまり生き方を示すその人のスタイル全てを表現する言葉。ルックは、今でこそ、そうした意味でよく使われる言葉ですが、マリーが最初に考え使い始めた表現です。

マリーは、自分らしいPARTS(パーツ)の組み合わせで、その人らしいLOOK(ルック)を創造してほしいと考えています。

バザーのショーウィンドウ。モデルに囲まれたマリー・クヮント。バザーのショーウィンドウ。モデルに囲まれたマリー・クヮント。

BLACK DAISY[ブラックデイジー]BLACK DAISY[ブラックデイジー]

マリーのラフスケッチの落書きから生まれたシンボル「デイジー」マリーのラフスケッチの落書きから生まれたシンボル「デイジー」

ブランドのアイコンであるデイジーマークは、実は、若かりし頃のマリー・クヮントの落書きから偶然に生まれたもの。いたずら書きをする癖があったマリーは「ここに、何かが要る」と、ポイントのようなものがほしくて描き続けているうちにデイジーの形になりました。実際、デザイン画に描きくわえたところ、ほかのどんな形よりしっくりきたそう。
ラフデッサンをする時にも、デイジーを描くと不思議にアイデアが浮かび、他のどんなモチーフよりシンプルなデイジーがぴったり合いました。

初めのうち、デイジーの形は一定ではありませんでしたが、1966年コスメ発売の際、現在の黒い花びら5枚に、真ん中に白い円を入れて定型化されました。

商標登録されているデイジーの一部商標登録されているデイジーの一部

マリーは、デイジーのアイコンができると、ミニスカートやベルト、ドレスによく使い、実際デザインにもよくなじみました。彼女は、「デイジーは遠くからはっきり識別できるのがいいし、仲のいい女性どうしで化粧品を見せっこする時もよく目立つ。デイジーには、新鮮で繊細で、ほんのりセクシーなイメージがある。」と話しています。

科学の力では咲かせることのできない、世界でたった一輪の黒い花。それは、マリーがもたらした「自由」と、既成概念を打ち破り「独創性」を表現する「マリークヮント」ブランドのシンボルとなりました。

現在ロゴに使用されているデイジー現在ロゴに使用されているデイジー

Non Rule [ノン・ルール]Non Rule [ノン・ルール]

In a way, I didn't know that I shouldn't have done it that way, so I did.[~いってみれば私は、ルールというものをまったく知らなかった。だからこそ、思うようにできたのです~]In a way, I didn't know that I shouldn't have done it that way, so I did.[~いってみれば私は、ルールというものをまったく知らなかった。だからこそ、思うようにできたのです~]

1963年、パリでの初コレクションでマリー・クヮントが発表したのは、「ウェット・ルック」と名付けたポリ・ビニールを素材にした一連の作品。ポリ・ビニールは、それまでファッション界では誰も使ったことのない革新的な素材でした。
売れる、売れないの価値基準は二の次。ルールや既存概念にとらわれず、新しい試みや大胆なことを自由奔放にやって、愉しんでしまうのがマリーなのです。

この「ウェット・ルック・コレクション」ショーは、マリー独特のやり方で演出されていました。ジャズのBGMにのり、モデルがものすごいスピードで、次から次へ60着のドレスやスーツを15分で見せるという速さ。
見飽きたオートクチュールのショーに退屈していた会場のムードは一変し、ショーは素晴らしい成功を収めました。

それまで女性のファッションと言えば、コルセットでウエストを締めあげたドレスが常識だった概念を、マリーはミニスカートやウェット・ルックなどの発表で次々と大胆に打ち破り、鬱積していたモードの世界に新しい風を吹き込みました。
他にも、ホットパンツ、ロングブーツ、スキニーパンツ、カラーストッキング...。1960年以降にマリーが生み出したものばかり。

「ルールを知らないから自由にできた。その業界のタブーを破って登場するというのが私のスタイルのようです。」 と、マリー・クヮントは伝統に縛られた英国ファッションを斬新で刺激的なスタイルで挑発し続けたのです。

チェルシーのスタジオで制作されたウェット・ルック・コレクション。このコレクションがマリーが初めて英ファッション誌「VOGUE」の表紙を飾るきっかけに。多くのバイヤーから注文が殺到。チェルシーのスタジオで制作されたウェット・ルック・コレクション。このコレクションがマリーが初めて英ファッション誌「VOGUE」の表紙を飾るきっかけに。多くのバイヤーから注文が殺到。

Fashion in the home Fashion in the home

Isn't there a need for fashion inside the home too?[~もっと家の中にもファッションが必要じゃないかしら~]Isn't there a need for fashion inside the home too?[~もっと家の中にもファッションが必要じゃないかしら~]

1966年に化粧品を発表し、1969年英国王立芸術協会から「王室工業デザイナー」の称号を与えられ、紆余曲折しながらも順調にキャリアを積んでいたマリー・クヮント。
彼女はある日、赤ちゃんを授かっていることに気がつきました。妊娠があきらかになって以来、家で過ごすことが多くなり改めて家の中を見回すと、もっと家の中にもファッション性が必要だと思えてきました。

ちょうどこの頃(1970年代初頭)、マリーにとっても幸運なことに人々の視線は家庭の内側へと向かい始めていました。
一人息子のオーランドが生まれてからは「家の中にデザインをもちこみたい・・・」と、シーツやカーテン、壁紙などのデザインを始め、次第に眼鏡やサングラス、ベレー帽、ステーショナリー、コーヒーカップなどのデザインへと発展していきました。
ファッションデザイナーとして、航空会社のユニフォームやはじめての男性用品ネクタイをデザインしたのもこの頃です。マリーのもとには、いろんな業界からデザインの注文が殺到しました。そしてついに、マリーブランドのワインさえ発売されました。

ファッションから化粧品、そしてインテリアへと、仕事の幅を広げると共に、家庭と仕事を両立させ、精力的に活動するマリー。
洋服だけでなく、生活を取り巻く様々なものをデザインし、ライフスタイルまでも革新するデザイナーとして、その活躍の場はとどまるところを知りませんでした。

当時マリーがデザインした壁紙やベッドリネン類を含むカタログの表紙。右からマリー・クヮント、愛息オーランド、夫アレキサンダー休日には庭で、ご主人のアレキサンダー、愛息オーランドと3人で遊ぶのが、何よりの楽しみだったそう。当時マリーがデザインした壁紙やベッドリネン類を含むカタログの表紙。右からマリー・クヮント、愛息オーランド、夫アレキサンダー休日には庭で、ご主人のアレキサンダー、愛息オーランドと3人で遊ぶのが、何よりの楽しみだったそう。

CURIOSITY[好奇心]CURIOSITY[好奇心]

Curiosity inspires me.[~好奇心が私を若くする~]Curiosity inspires me.[~好奇心が私を若くする~]

1955年、マリー・クヮントとその仲間が、自分たちの力で何か新しいことをしたいと始めたブティック「バザー」 。値段のつけ方がわからず粗利益の乗せ方を間違えてロンドン中で一番安い値段をつけたり、高級デパートのハロッズで生地を買って商品を仕立てたり。 常識知らずと呼ばれ壁にぶつかりつつも、彼女は自分の好奇心を頼りに、湧き上がる感性や直感を信じ体当たりの毎日を過ごしました。

その後も精力的に活動し、スイス・サンモリッツで初の海外ファッションショーの成功や、 1957年にロンドン屈指の中心街ナイツブリッジにて「バザー」2号店を開店、経験と実績を重ねデザイナーとしてステップアップしつつ、良きパートナーであるアレキサンダーと結婚し私生活も充実しました。

仕事でニューヨークを訪れたマリーとアレキサンダー(1960年)仕事でニューヨークを訪れたマリーとアレキサンダー(1960年)

そして、「バザー」開店から10年後の1965年には、マリーは当時のアメリカ三大アパレルメーカーのひとつピューリタン社をはじめ、同じくアメリカの最大チェーン店J.C.ペニーやロンドンのジンジャー・グループなどのコレクションのため、年間なんと528ものデザインをこなすファッションデザイナーへと成長したのです。

世界的デザイナーとして成功したマリーの原動力は「それは、なぜそうあらねばならないのか・・・」から始まる"逆転の発想" と「飽きがきたら、また新しいものに挑戦する。好奇心が全て。」と話します。 彼女は、見たり読んだり考えたりするあらゆるものからインスピレーションを得て、掃除機のように頭に吸い込み、別のものに変換してきました。「未来」を先取りし続けたその根底にあったのは、デザインに対する尽きない好奇心でした。

エッジの効いた楽しいファッションを届けたいと生まれたジンジャーグループコレクション(1963年)。ジンジャーグループのポスター。マリー(中央上)、アレキサンダー(左端)と9人のモデル(1966年)エッジの効いた楽しいファッションを届けたいと生まれたジンジャーグループコレクション(1963年)。ジンジャーグループのポスター。マリー(中央上)、アレキサンダー(左端)と9人のモデル(1966年)

About Colours: Part 1[色について:その1]About Colours: Part 1[色について:その1]

Every girl has a favourite colour. I have 36.[~どの女性にも必ずひとつは好きな色があるはず。私には36色~]Every girl has a favourite colour. I have 36.[~どの女性にも必ずひとつは好きな色があるはず。私には36色~]

1950年代後半から60年代にかけ、ミニスカートを始めとするファッションで世界に大きなムーブメントを巻き起こしてきたマリー・クヮント。
デザインを手掛ける中で、「頭からつま先までトータルコーディネートしたい」と思い始めたマリーは、1966年に化粧品を発売しました。メイクもファッションの一部ととらえデザインされた、ファッショナブルなコスメアイテムは、世界中で反響を呼びました。

日本では、1971年にファッションフロアで化粧品の発売がスタートし、若い人たちの間で人気が爆発しました 。1982年には、プロモーションのため、新しいスタイルの36色のリップ&ネイルを携え、マリーは3度目の来日を果たしました。
マリーが来日した時の服装は、膝小僧がぴょこんと出る程度の黒のミニ、華奢な脚をつつんだ黒のストッキング、黒のプレーンな中ヒール。ヘア・スタイルは日本へ旅立つ直前に、仲間のヴィダル・サスーンがデザインしたショートカットで、「ミニが似合う大人の女性」を感じさせるファッションでした。

ファッショナブルなデザインのコスメアイテム(コスメ発売初期頃)。3度目に来日した時のマリー・クヮント氏(1982年)ファッショナブルなデザインのコスメアイテム(コスメ発売初期頃)。3度目に来日した時のマリー・クヮント氏(1982年)

マリーは「先入観にとらわれず、自分の好きな色を選び、自分なりのコーディネーションでメイクを楽しんで欲しい。メイクはノン・ルール。どんな革命的な色でも、どんどん使いこなして欲しい。青とか黒といった色も常識的な赤と重ねると、驚くほどナチュラルで新鮮な色が創れるから・・・」と型にとらわれず、メイクで色を遊ぶ楽しさを積極的にアピールしました。

「欲しい色、自分だけの色をつくればいい...。」という発想は、あきらめたり、ないものねだりをすることが大嫌いな、いかにもマリーらしい思いつき。彼女は、いろんな色を試す楽しさを日本の女性にも知って欲しかったのです。 リップやネイルに続いて、1984年にはアイシャドウ「アイオープナー」70色を発売。 そして、時と共に色数が増え「アイオープナー」は、今や120色の多彩なバリエーションを持つ、ブランドを代表するアイテムに成長。使う人の目線に立って、時代の一歩先を行く提案をしてきたマリー・クヮントは、色のレジェンドとして今も輝いています。

イギリスのリップ&ネイル広告ビジュアル(コスメ発売初期頃)。モデルチェンジしたリップ&ネイル(1982年)イギリスのリップ&ネイル広告ビジュアル(コスメ発売初期頃)。モデルチェンジしたリップ&ネイル(1982年)

About Colours: Part 2[色について:その2]About Colours: Part 2[色について:その2]

Everyone is copying my Sticks & Crayons. But they can't copy my colours..[~みんなが私のスティックやクレヨンの真似をする。だけど、私の色だけは真似できない。~]Everyone is copying my Sticks & Crayons. But they can't copy my colours..[~みんなが私のスティックやクレヨンの真似をする。だけど、私の色だけは真似できない。~]

マリーは、デザイナーの仕事をはじめた頃から、「色」に対して、ある種のこだわりをもっていました。「色には魔法の力がある。それは特徴を変えてしまう力。その力が私たちを新しくしてくれる。」と・・・。

いろんな色を使いこなす秘訣は、年齢は関係なく、キレイになるための冒険心があるかどうか。マリーの「色」への思いはとどまるところを知らず、「冒険してみたい」という気持ちにもっと挑発したいと思いました。そして生まれたのが、120色のアイシャドウ「アイオープナー」を始めとする、豊富なカラーバリエーションのリップや、ネイルたちでした。

クレヨンとスティック(1971年頃)クレヨンとスティック(1971年頃)

マリーの色は、ファッションをデザインするときと同じスタンスで創られています。マリーには「口紅の色」という発想から「色」をクリエイトするなんて考えられませんでした。なぜなら、そのとき、その場所に合うファッションというのは、服装だけでもなければ、メイクだけでもない・・・ふと膝においた指先のネイルがスカートの色にとけこんでいく、そんな素敵にトータライズされたファッションを提案したいといつも思っていたからです。

マリーのみずみずしい感性は、魔法のように、あらゆる色をコスメにしてしまいました。
一見似たような色も、実は質感や微妙なトーンが違っていて、肌やくちびるにのせると思いがけない違いにビックリさせられることもしばしば。女性を美しく見せる色がこんなにあったの・・・と感心してしまうほど、充実したカラーラインナップです。

豊富に揃った色の中から、自分だけの組合せを考えたり、迷いに迷いながら色を選ぶのを楽しんだり・・・、マリーのショップには今も昔と変わらず、自由と遊び心があふれています。

アイオープナーとリップミックス(1984年)。ネイルポリッシュ(1982年)。マリー・クヮントによるメイクアップについての考え方やメイクのHOWTOが書かれた書籍「QUANT ON MAKEUP」(英語版1986年、日本語版1987年)アイオープナーとリップミックス(1984年)。ネイルポリッシュ(1982年)。マリー・クヮントによるメイクアップについての考え方やメイクのHOWTOが書かれた書籍「QUANT ON MAKEUP」(英語版1986年、日本語版1987年)

MAKEUP & SKINCARE[メイクアップとスキンケア]MAKEUP & SKINCARE[メイクアップとスキンケア]

The most beautiful makeup is that which is fun to apply, which looks natural,and which flatters you more than wearing none at all.[~手軽に楽しく化粧ができ、自然で、しかも、しないよりした方がずっと美しい~]The most beautiful makeup is that which is fun to apply, which looks natural,and which flatters you more than wearing none at all.[~手軽に楽しく化粧ができ、自然で、しかも、しないよりした方がずっと美しい~]

こうした、マリー・クヮントの化粧品に対する考え方は今も色あせず、私たちの胸に響きます。

1972年の初来日から、ロンドンに戻ったマリーが日本の女性たちのためにと考案したのはファンデーションでした。世界の中でもとびっきりキレイな素肌を持つ日本女性を、さらに美しく魅せるナチュラルメイクを提案したかったのです
日本女性の肌の美しさは、マリーの創造意欲をかきたて、「素肌を活かして、よりキレイに色づくメイクを」というアイデアが生まれました。名前は「ジェリー・ベイビー 」。名前の通り、ベビーボトル(ほ乳瓶)の形をした容器に入ったゼリー状のファンデでした。

白い哺乳瓶のようなボトルに入った「ジェリーベイビー」。冒頭のマリーの哲学を体現したコスメとして誕生。ゲルスキンカラー(中央の大きなボトル)は化粧崩れしにくく、簡単につけられて肌に自然などの特徴を持つアイテムとして登場(日本、1973年6月)白い哺乳瓶のようなボトルに入った「ジェリーベイビー」。冒頭のマリーの哲学を体現したコスメとして誕生。ゲルスキンカラー(中央の大きなボトル)は化粧崩れしにくく、簡単につけられて肌に自然などの特徴を持つアイテムとして登場(日本、1973年6月)

スキンケアにおいては、フルーツやハーブなど原料を自然の恵みにこだわった自然派スキンケアラインの"スペシャルレシピス "を発案。日本では1973年10月に登場。食の安全性が問われ始めた70年代に、「肌への安全性」に対してもいち早く着目し、安心して肌に使えるスキンケアラインの発売を通じて、その大切さを説きました。

自然派スキンケアラインのスペシャルレシピス。左からクレンジングやマッサージクリームとして使えるコールドクリーム、トーニングローションとモイスチャライザー(日本、1973年10月)自然派スキンケアラインのスペシャルレシピス。左からクレンジングやマッサージクリームとして使えるコールドクリーム、トーニングローションとモイスチャライザー(日本、1973年10月)

一方で、ヨーロッパでは「メイクは楽しい!」をアピールするプロモーションとして「ビューティバス 」が登場。マリークヮントのロゴとデイジーで彩られたバスがヨーロッパやカナダを駆け巡りました。バスの中には鏡の前にマリーのコスメとメイクアイテムが並び、まるで「動く美容室」。メイクアップアーチストがメイクレッスンを行い、約5万人の女性たちが参加しました。世界中に、マリーのコスメが拡がっていきました。

ヨーロッパを巡回したビューティバスヨーロッパを巡回したビューティバス
ファンデーションでは、ナチュラルに魅せることにこだわり、スキンケアは、肌への安全性を、メイクアップでは組み合わせる楽しさを唱えたマリー。
マリー・クヮントは、時代が変わっても変わらない美しさの本質を早くから捉えていたのです。

Mini Skirt[ミニスカート]Mini Skirt[ミニスカート]

The mini skirt was more than just fashion. It was a symbol of liberation for women.[~ミニスカートはファッション以上のものだ。それは女性にとって解放のシンボルだった~]The mini skirt was more than just fashion. It was a symbol of liberation for women.[~ミニスカートはファッション以上のものだ。それは女性にとって解放のシンボルだった~]

マリーの「ミニスカート」がロンドンを飛び出し、海外でも熱狂的に歓迎されはじめたのは、1962年からのアメリカにおける成功が大きなきっかけでした。世界のジャーナリストたちはミニスカートの驚異的な流行に2つの大きな社会的変化を見い出していました。

ひとつは、ミニが「女性の生き方を変えた」、女性解放という一種の大革命とでも呼ぶべき社会変化の引き金になったことです。マリーはあるインタビューに「ファッションは社会の変化を予言することができる」、こう答えています。女性がライフスタイルに解放感を求めはじめた時期に、その欲求を充たしてくれるミニが出現した・・・以来、ミニスカートは女性解放の象徴のように語られるようになりました。

もうひとつの大きな変化は、ファッションがそれまでのように、オートクチュールからではなく、普通の女性たちが着る1枚のドレスから生まれるようになったこと。

マリーのファッションは「若さ」や「新しさ」は言うまでもなく、既製服王国アメリカのノウハウを得て、全ての人が楽しめる大量生産可能な仕組みを築き、時代を築いたといっても過言ではありません。パリでの初コレクション「ウェット・ルック・コレクション」は、どれも5ポンド(当時、約4,400円)そこそこ。マリーは最初から、ファッション的なドレスこそ、誰でもが買えるべきだという信念を持っていました。

ほんの一握りの裕福な人たちがファッションを享受し、大衆がそのおこぼれにあずかっていた時代は、マリーの出現と共に幕を下ろすことになったのです。

マリー・クヮントとモデルたち。マリー・クヮントのミニワンピースが特別記念切手(2009年1月、英)に。マリー・クヮントとモデルたち。マリー・クヮントのミニワンピースが特別記念切手(2009年1月、英)に。

1966年、マリー・クヮントはミニスカートの功績により、世界的な音楽グループ「ビートルズ」とともに、エリザベス女王からO.B.E(英国王室第四等勲章)を受章。授章式には、自分でデザインしたシンプルなミニのドレスを選び、そのドレスはマリーにとてもよく似合っていました。

1966年エリザベス女王よりOBE(英国王室第4等勲章)を受章。OBE受章時にマリーが着用したドレス。マリー・クヮントがデザインしたミニ丈のワンピース。1966年エリザベス女王よりOBE(英国王室第4等勲章)を受章。OBE受章時にマリーが着用したドレス。マリー・クヮントがデザインしたミニ丈のワンピース。

BAZAAR [バザー]BAZAAR [バザー]

BAZAAR~Swinging London~[1955年、ロンドンのチェルシー地区にマリーがブディック「バザー」を開店]BAZAAR~Swinging London~[1955年、ロンドンのチェルシー地区にマリーがブディック「バザー」を開店]

マリー・クヮントが、後に夫となるアレキサンダーと友人のアーチーとともにブティック " BAZAAR(バザー)" を開いたのは、1955年。場所は、ロンドンのチェルシー地区の目抜き通りキングス・ロードで、アバンギャルドな洋服や雑貨など、マリーの"好きなもの"を集めた、いわばセレクトショップの草分けでした。既存の英国流の紳士・淑女ファッションから相反する自由で開放的なモードは、熱狂的なファンに支持され、「バザー」は当時芽吹き始めたポップカルチャーをけん引する存在となりました。

この頃ファッションは、若い人たちが創るという方向に変わりつつあり、彼らにとってファッションは、ひけらかすものではなく人生を大胆に楽しむものとなりました。その感性は、マリーのデザインとぴったりと一致。「バザー」はこうした変化の一端を担って、ファッション業界に根本的な改革をもたらす原動力になりました。

1957年に2号店をロンドン屈指の中心街ナイツブリッジにオープンさせ、「バザー」の人気は最高潮に。モデルのツイッギー、ヘアアーティストのヴィダル・サスーン、建築家のテレンス・コンラン、さらに音楽シーンを塗り替えたビートルズとともに、60年代のカルチャーシーンに大旋風を巻き起こしました。ロンドンを自由で刺激的な街に変え、世界中から憧れと賛美を込めて"スウィンギング・ロンドン"と呼ばれた60年代は、マリー・クヮント抜きでは語れないのです。

バザーのバッグを持ったモデル(1959年)。キングスロードの「バザー」(1960年)。2号店ナイツブリッジ「バザー」のショーウィンドウ(1961年)。©Victoria and Albert Museum, London.バザーのバッグを持ったモデル(1959年)。キングスロードの「バザー」(1960年)。2号店ナイツブリッジ「バザー」のショーウィンドウ(1961年)。©Victoria and Albert Museum, London.

Cosmetics [コスメ]Cosmetics [コスメ]

I wanted to bring fashion to the face.[~要するに私は、I wanted to bring fashion to the face.[~要するに私は、

マリーは、洋服のデザインをしながら「服に合うメイク(コスメ)」がないことに気付きました。「顔にもファッションを持ち込みたい」と、アクセサリーや靴、バッグを選ぶように、自由に自分らしく楽しめる、ルールにとらわれないコスメを創りたいと思いました。

今でこそ珍しくもありませんが、デザイナーが自らのファッション感覚で化粧品を創るというのは、これが初めての試みでした。

「私ならではのスタイルのあるもの。ファッション性が高くて、しかも簡単なもの。」と、服の色やムードにマッチさせるために、ファッションから色をとり、遊ぶことからはじめました。絵の具やクレヨンや舞台用のコスメを混ぜ合わせて好みの色を創り、それをイギリスでは老舗の一流化粧品会社に持ち込んで、開発を依頼しました。「商品は色。パッケージは黒・白・シルバーでまとめ、デイジーのロゴを使おう。」とマリーは決めていました。おなじみの「デイジー」は、企画の初期段階から、彼女のコスメには「これ以外ない」というほど似合っていました。

それから18ヶ月。完成した最初のコレクションは、原色の、顔を描くための特注缶入クレヨンセットと、黒・白・赤・シルバー・からし色のネイルからなる奇妙なものでした。これが大ヒット。マリーのコスメは彼女が今までデザインしてきた服と同じ印象、同じくらいのインパクトがありました。

こうして1966年に発売されたマリー初のコスメはメイクアップアイテム。単にみだしなみや女性らしさの枠にとらわれない、自己表現としてのメイク。その斬新な発想は、瞬く間に世界中を魅了し、「メイクはファッションの一部」という考え方は、今では当然のこととなっています。マリーにとってのメイクアップは、自分らしさを見い出すためのもの。今まで気づかなかった新しい魅力と出会い、未知の世界へと誘うパスポートなのです。

バザーのバッグを持ったモデル(1959年)。キングスロードの「バザー」(1960年)。2号店ナイツブリッジ「バザー」のショーウィンドウ(1961年)。©Victoria and Albert Museum, London.バザーのバッグを持ったモデル(1959年)。キングスロードの「バザー」(1960年)。2号店ナイツブリッジ「バザー」のショーウィンドウ(1961年)。©Victoria and Albert Museum, London.

Freedom&Individual [自由に 自分らしく]Freedom&Individual [自由に 自分らしく]

脚をさらすミニスカートは女性解放のシンボルに、ショーウィンドウのディスプレイは流行の発信源に、コレクションのランウェイは闊歩するモデルたちを熱狂させました。一流のアーティストたちとの交流からポップカルチャーを誕生させ、インタビューでは「古いものには反抗するべき」と一刀両断したマリー。 一切の規制や束縛を嫌い、自分の感性に忠実に新しいものを生み出し続けた彼女のスピリッツは、「自由に 自分らしく」でした。

そのスピリッツを存分に楽しめる、マリー・クヮントの展覧会が2019年、ロンドンの「ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)」で開催されました。展示されたのは、世界中にマリー旋風を巻き起こした刺激的なクリエーションの数々。それらは60年代に誕生しながらも、現代のファッションに通じるパッションに満ちあふれていました。

そして2022年、世界を巡回した展覧会「マリー・クワント展」がついに日本上陸。約100点の衣服を中心に、小物や写真、映像等が展示。1955年から75年にかけてのマリーのデザイナーとしての活動、時代を切り開いた起業家としての歩みが公開されています。
「ルールは破るためにある」と断言し、ミニスカートを初め前例のないファッションや、ファッショナブルなコスメを世に送り出してきたマリーのアーカイブ。まさしく、これまで人々が常識と信じていたことを「自由に 自分らしく」塗り替えた、 マリーの軌跡がここにあります。

そのDNAを受け継ぐアイテムもまた、数々のマリークヮントショップで、時代を超えて輝き続けています。時代の変化を恐れず、既存のルールにとらわれないで、「自由に 自分らしく」生きることがマリー・クヮントの不変のメッセージ。それは、未来がどのように変わろうとも色褪せることはありません。

《マリー・クワントのカンゴール製ベレー帽の広告》1967年。ベストとスカートを組み合わせた「コール・ヒーバー(石炭担ぎ)」を着るセリア・ハモンド(左)とジーン・シュリンプトン 1962年。カーディガンドレスの「レックス・ハリソン」を着るジーン・シュリンプトン 1962年《マリー・クワントのカンゴール製ベレー帽の広告》1967年。ベストとスカートを組み合わせた「コール・ヒーバー(石炭担ぎ)」を着るセリア・ハモンド(左)とジーン・シュリンプトン 1962年。カーディガンドレスの「レックス・ハリソン」を着るジーン・シュリンプトン 1962年

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