ブランドの創始者マリー・クヮントは、
1950年代後半のロンドンでミニスカートを発表し、
一躍世界にセンセーションを巻き起こした
ファッション・クリエイター。
彼女が巻き起こしたファッション・レボリューションを紹介する
展覧会(「マリー・クワント展」情報はこちら)が
2022年11月、日本に上陸します。
これを記念し、マリー・クヮントの様々なエピソードを
1年にわたり少しずつご紹介します。
刺激的でワクワクする、
マリー・クヮントのヒストリーを楽しんで!
マリー・クヮントは、イギリス・ロンドン出身のファッション・クリエイター。
1955年に夫のアレキサンダーや友人と、チェルシーのキングスロードで始めたブティックBAZAAR(バザー)が出発点。
古いルールや既成概念に縛られないデザインで、Swinging LONDON(スインギングロンドン)と呼ばれる60年代のカルチャームーブメントを牽引した一人と言われています。マリーが発表したミニスカートは世界的なブームとなり、女性の社会進出のシンボルともとらえられるようになりました。
"自由に 自分らしく" というマリー・クヮントのスピリッツは、ブランドの商品やサービスを通じ、時代を超えて受け継がれています。
マリー・クヮントは、自分がデザインするアイテムをPARTS(パーツ)と呼びます。
コスメもファッションも、その全てのひとつひとつがパーツであり、それらを自由に組み合わせることによって完成するのが、マリーが提案するLOOK(ルック)です。
マリーは、1955年にロンドンのキングス・ロードにブティック「バザー」をオープンしました。
「例えばあの服に、私のタイツを組み合わせたら、もっと、ファッションが楽しくなるはず・・・。」
彼女の事業のはじまりでもあった「バザー」は、パーツの組み合わせによる楽しい雑貨感覚のショップでした。
これからはパーツやアクセサリーの時代。マリーはそう予測していました。パーツが蓄積されれば、ひとつのスタイルになる。マリーの先を読む目は確かでした。それは時代が証明してくれました。
マリー・クヮントの創造の根幹にあるルックとは、単に身に着ける衣服のコーディネートを指すだけでなく、その人が醸し出す雰囲気や動作、人への接し方から、化粧の仕方、髪の結い方まで、つまり生き方を示すその人のスタイル全てを表現する言葉。ルックは、今でこそ、そうした意味でよく使われる言葉ですが、マリーが最初に考え使い始めた表現です。
マリーは、自分らしいPARTS(パーツ)の組み合わせで、その人らしいLOOK(ルック)を創造してほしいと考えています。
ブランドのアイコンであるデイジーマークは、実は、若かりし頃のマリー・クヮントの落書きから偶然に生まれたもの。いたずら書きをする癖があったマリーは「ここに、何かが要る」と、ポイントのようなものがほしくて描き続けているうちにデイジーの形になりました。実際、デザイン画に描きくわえたところ、ほかのどんな形よりしっくりきたそう。
ラフデッサンをする時にも、デイジーを描くと不思議にアイデアが浮かび、他のどんなモチーフよりシンプルなデイジーがぴったり合いました。
初めのうち、デイジーの形は一定ではありませんでしたが、1966年コスメ発売の際、現在の黒い花びら5枚に、真ん中に白い円を入れて定型化されました。
マリーは、デイジーのアイコンができると、ミニスカートやベルト、ドレスによく使い、実際デザインにもよくなじみました。彼女は、「デイジーは遠くからはっきり識別できるのがいいし、仲のいい女性どうしで化粧品を見せっこする時もよく目立つ。デイジーには、新鮮で繊細で、ほんのりセクシーなイメージがある。」と話しています。
科学の力では咲かせることのできない、世界でたった一輪の黒い花。それは、マリーがもたらした「自由」と、既成概念を打ち破り「独創性」を表現する「マリークヮント」ブランドのシンボルとなりました。
1963年、パリでの初コレクションでマリー・クヮントが発表したのは、「ウェット・ルック」と名付けたポリ・ビニールを素材にした一連の作品。ポリ・ビニールは、それまでファッション界では誰も使ったことのない革新的な素材でした。
売れる、売れないの価値基準は二の次。ルールや既存概念にとらわれず、新しい試みや大胆なことを自由奔放にやって、愉しんでしまうのがマリーなのです。
この「ウェット・ルック・コレクション」ショーは、マリー独特のやり方で演出されていました。ジャズのBGMにのり、モデルがものすごいスピードで、次から次へ60着のドレスやスーツを15分で見せるという速さ。
見飽きたオートクチュールのショーに退屈していた会場のムードは一変し、ショーは素晴らしい成功を収めました。
それまで女性のファッションと言えば、コルセットでウエストを締めあげたドレスが常識だった概念を、マリーはミニスカートやウェット・ルックなどの発表で次々と大胆に打ち破り、鬱積していたモードの世界に新しい風を吹き込みました。
他にも、ホットパンツ、ロングブーツ、スキニーパンツ、カラーストッキング...。1960年以降にマリーが生み出したものばかり。
「ルールを知らないから自由にできた。その業界のタブーを破って登場するというのが私のスタイルのようです。」 と、マリー・クヮントは伝統に縛られた英国ファッションを斬新で刺激的なスタイルで挑発し続けたのです。
1966年に化粧品を発表し、1969年英国王立芸術協会から「王室工業デザイナー」の称号を与えられ、紆余曲折しながらも順調にキャリアを積んでいたマリー・クヮント。
彼女はある日、赤ちゃんを授かっていることに気がつきました。妊娠があきらかになって以来、家で過ごすことが多くなり改めて家の中を見回すと、もっと家の中にもファッション性が必要だと思えてきました。
ちょうどこの頃(1970年代初頭)、マリーにとっても幸運なことに人々の視線は家庭の内側へと向かい始めていました。
一人息子のオーランドが生まれてからは「家の中にデザインをもちこみたい・・・」と、シーツやカーテン、壁紙などのデザインを始め、次第に眼鏡やサングラス、ベレー帽、ステーショナリー、コーヒーカップなどのデザインへと発展していきました。
ファッションデザイナーとして、航空会社のユニフォームやはじめての男性用品ネクタイをデザインしたのもこの頃です。マリーのもとには、いろんな業界からデザインの注文が殺到しました。そしてついに、マリーブランドのワインさえ発売されました。
ファッションから化粧品、そしてインテリアへと、仕事の幅を広げると共に、家庭と仕事を両立させ、精力的に活動するマリー。
洋服だけでなく、生活を取り巻く様々なものをデザインし、ライフスタイルまでも革新するデザイナーとして、その活躍の場はとどまるところを知りませんでした。
1955年、マリー・クヮントとその仲間が、自分たちの力で何か新しいことをしたいと始めたブティック「バザー」 。値段のつけ方がわからず粗利益の乗せ方を間違えてロンドン中で一番安い値段をつけたり、高級デパートのハロッズで生地を買って商品を仕立てたり。 常識知らずと呼ばれ壁にぶつかりつつも、彼女は自分の好奇心を頼りに、湧き上がる感性や直感を信じ体当たりの毎日を過ごしました。
その後も精力的に活動し、スイス・サンモリッツで初の海外ファッションショーの成功や、 1957年にロンドン屈指の中心街ナイツブリッジにて「バザー」2号店を開店、経験と実績を重ねデザイナーとしてステップアップしつつ、良きパートナーであるアレキサンダーと結婚し私生活も充実しました。
そして、「バザー」開店から10年後の1965年には、マリーは当時のアメリカ三大アパレルメーカーのひとつピューリタン社をはじめ、同じくアメリカの最大チェーン店J.C.ペニーやロンドンのジンジャー・グループなどのコレクションのため、年間なんと528ものデザインをこなすファッションデザイナーへと成長したのです。
世界的デザイナーとして成功したマリーの原動力は「それは、なぜそうあらねばならないのか・・・」から始まる"逆転の発想" と「飽きがきたら、また新しいものに挑戦する。好奇心が全て。」と話します。 彼女は、見たり読んだり考えたりするあらゆるものからインスピレーションを得て、掃除機のように頭に吸い込み、別のものに変換してきました。「未来」を先取りし続けたその根底にあったのは、デザインに対する尽きない好奇心でした。
1950年代後半から60年代にかけ、ミニスカートを始めとするファッションで世界に大きなムーブメントを巻き起こしてきたマリー・クヮント。
デザインを手掛ける中で、「頭からつま先までトータルコーディネートしたい」と思い始めたマリーは、1966年に化粧品を発売しました。メイクもファッションの一部ととらえデザインされた、ファッショナブルなコスメアイテムは、世界中で反響を呼びました。
日本では、1971年にファッションフロアで化粧品の発売がスタートし、若い人たちの間で人気が爆発しました 。1982年には、プロモーションのため、新しいスタイルの36色のリップ&ネイルを携え、マリーは3度目の来日を果たしました。
マリーが来日した時の服装は、膝小僧がぴょこんと出る程度の黒のミニ、華奢な脚をつつんだ黒のストッキング、黒のプレーンな中ヒール。ヘア・スタイルは日本へ旅立つ直前に、仲間のヴィダル・サスーンがデザインしたショートカットで、「ミニが似合う大人の女性」を感じさせるファッションでした。
マリーは「先入観にとらわれず、自分の好きな色を選び、自分なりのコーディネーションでメイクを楽しんで欲しい。メイクはノン・ルール。どんな革命的な色でも、どんどん使いこなして欲しい。青とか黒といった色も常識的な赤と重ねると、驚くほどナチュラルで新鮮な色が創れるから・・・」と型にとらわれず、メイクで色を遊ぶ楽しさを積極的にアピールしました。
「欲しい色、自分だけの色をつくればいい...。」という発想は、あきらめたり、ないものねだりをすることが大嫌いな、いかにもマリーらしい思いつき。彼女は、いろんな色を試す楽しさを日本の女性にも知って欲しかったのです。 リップやネイルに続いて、1984年にはアイシャドウ「アイオープナー」70色を発売。 そして、時と共に色数が増え「アイオープナー」は、今や120色の多彩なバリエーションを持つ、ブランドを代表するアイテムに成長。使う人の目線に立って、時代の一歩先を行く提案をしてきたマリー・クヮントは、色のレジェンドとして今も輝いています。
マリーは、デザイナーの仕事をはじめた頃から、「色」に対して、ある種のこだわりをもっていました。「色には魔法の力がある。それは特徴を変えてしまう力。その力が私たちを新しくしてくれる。」と・・・。
いろんな色を使いこなす秘訣は、年齢は関係なく、キレイになるための冒険心があるかどうか。マリーの「色」への思いはとどまるところを知らず、「冒険してみたい」という気持ちにもっと挑発したいと思いました。そして生まれたのが、120色のアイシャドウ「アイオープナー」を始めとする、豊富なカラーバリエーションのリップや、ネイルたちでした。
マリーの色は、ファッションをデザインするときと同じスタンスで創られています。マリーには「口紅の色」という発想から「色」をクリエイトするなんて考えられませんでした。なぜなら、そのとき、その場所に合うファッションというのは、服装だけでもなければ、メイクだけでもない・・・ふと膝においた指先のネイルがスカートの色にとけこんでいく、そんな素敵にトータライズされたファッションを提案したいといつも思っていたからです。
マリーのみずみずしい感性は、魔法のように、あらゆる色をコスメにしてしまいました。
一見似たような色も、実は質感や微妙なトーンが違っていて、肌やくちびるにのせると思いがけない違いにビックリさせられることもしばしば。女性を美しく見せる色がこんなにあったの・・・と感心してしまうほど、充実したカラーラインナップです。
豊富に揃った色の中から、自分だけの組合せを考えたり、迷いに迷いながら色を選ぶのを楽しんだり・・・、マリーのショップには今も昔と変わらず、自由と遊び心があふれています。